1935年7月6日、チベット・アムド地方タクツェル村に十六人兄弟の一人として生まれる(うち九人は幼くして亡くなっている)。幼名はラモ・ドンドゥプ。2歳の時に、観音菩薩の化身であるチベットの政治・宗教の最高指導者「ダライ・ラマ」十三世トゥプテン・ギャツォの生まれ変わりに認定される。4歳の時にチベットの首都ラサへ迎えられ、1940年、ラサのポタラ宮殿にて第十四世として即位。ティジャン・リンポチェ、リン・リンポチェらを師として仰ぎ、チベット仏教の伝統教学を学ぶ(僧侶としてはデプン・ゴマン学堂サムロ学寮に所属)。
1949年よりはじまった中国共産軍によるチベット侵略問題を解決すべく1950年に政権に就き、1954年には毛沢東や周恩来との会談を行いチベット・中国間の問題を平和的に解決しようとしたが、受け容れられなかった。すでに首都ラサが制圧されていた1959年2月末、大祈願祭にてチベット仏教の最高学位「ゲシェー・ラランパ」の称号を取得。この大祈願祭が3月5日に終了するとすぐ、3月10日、中国軍により幽閉されていたノルブリンカ離宮へ民衆が集結し、中国軍に抵抗して一斉蜂起するも制圧された。もはやチベット問題の平和的解決が不可能であり、国際社会に援助が必要であると側近に勧められ、3月17日にノルブリンカ離宮より脱出し、インドへ亡命。これに続き八万人のチベット人が同年インドへと亡命した。亡命後すぐに亡命政権を樹立し、中国政府との十七条の同意書を否決し、国際社会からの支援をもとめた。
1963年、亡命政府の民主憲法の制定に尽力し議会を発足。1967年にはじめての外国訪問地として、日本、タイを訪問する。1987年には米国議会にて「チベットに関する五項目和平案」を提案し中国政府との対話を求めるものの、実質的には今日まで無視され続けている。1989年、ノーベル平和賞を受賞。1992年より再度民主化改革を行い、2001年、チベット亡命政府初の直接選挙で選ばれた首席大臣が誕生。現在は実質的な政権運営から退いている。
自伝として『チベットわが祖国』があるほか、著書『善説明慧開眼』『真実請願文』などがある。英文での講演録が多く出版され、その和訳も多く出版されている。世界各地へ講演旅行をしながらも、現在十二万人いる亡命チベット人の社会においてチベット仏教の最高指導者として数多くの説法会・伝授会を開催し、伝統教学の普及と仏教文化の保全活動を積極的に行なっている。今日でもなおチベット問題は解決していない。
1943年5月22日、北アイルランドのベルファストに生まれる。1970年代、北アイルランドとイングランドの宗教対立により激しい内戦となった当時、アイルランド共和軍(IRA)と警察との衝突の巻き添えに3人の子どもたちが殺される姿を目撃して大きな衝撃を受ける。その後、被害者の伯母マイレッド・コリガン・マグワイヤと共に暴力に反対する平和市民のための共同体「The Community for Peace People」を設立。北アイルランドにおけるプロテスタントとカトリックの衝突を平和的に解決するために尽力する。その功績が認められ、1978年マイレッド・コリガン・マグワイヤとともにノーベル平和賞を受賞。近年は子どもの平和や安全、幸福をもとめて世界中の紛争地域で活動する「子どもたちに愛情を与えるための国際世界センター」(World Centers of Compassion for Children International)を主宰し、その理事長を務めている。
1931年、南アフリカのヨハネスバーグ近くの貧しい黒人の町、クレルクスドルプで生まれる。さまざまな黒人差別のなかで育つが、優秀な成績で大学に進学。高校の教師となるが、同年に制定された黒人の子どもの教育を制限する「バンツー教育法」にショックを受け、教師を断念。少年時代に出会った白人の反アパルトヘイト運動指導者ハドルストン神父の影響もあり、司祭になることを決意し神学校へ通い始める。その後、1962年にロンドン大学のキングス・カレッジへ留学して学士と修士号を取得し、副牧師として勤務する。後に南アフリカ共和国のアングリカン(英国国教会)の大主教に就任する。非暴力を説く反アパルトヘイト運動の指導者、「南アフリカのマーチン・ルーサー・キング」として知られる。1984年にノーベル平和賞を受賞。1996〜98年まで、かつてアパルトヘイトで行われていた残虐行為を明らかにし、国民の和解を図るためにマンデラ元南アフリカ大統領が設置した「真実究明和解委員会」の委員長を務める。
1936年生まれ。DNA解明の世界的権威・筑波大学名誉教授。世界に先がけ、高血圧の黒幕である酵素「レニン」の遺伝子解読に成功し、世界的な業績として一躍注目を集める。現在ノーベル賞受賞者の有力候補とされる注目の人物。最先端の遺伝子工学の研究から「感性と遺伝子は繋がっている」ことを究明。想像をはるかに超える人間の持つ偉大な可能性を開花させる「眠れる遺伝子の目覚めさせ方・考え方」を解き明かす。科学に身を置きながら、哲学、宗教、宇宙観をも包み込む独自の世界観を展開。その飾らない人柄と軽妙洒脱な語り口調に、全国の経営者から絶賛の声が集まる。著書「生命の暗号」「人生の暗号」「サムシング・グレート」「遺伝子は語る」「幸福の暗号」「未知からのコンタクト」他多数。
1932年、チベット首都ラサの近くキナク村に、父チューペル・テンジン、母ヤルドの子として生まれる。11歳の時、当時8000人以上の学僧が在籍していたチベット仏教の三大学問寺パルデン・デプン僧院タシ・ゴマン学堂ハルドン学寮ラワンリンにて学堂長テンパ・チューター師のもとで出家する。以降、ホル・ゲシェー・ガワン・チュータク師(Hor Naga dbang chos grags)を師として仰ぎ、仏教基礎学・般若学・中観学・阿毘達磨学を学習し修了する。1959年(27歳)中国共産党のチベット侵略にともないダライ・ラマ法王の後を追ってインドに亡命。亡命後、律学を修了する。1967年にチベット仏教における最高学位である「ゲシェー・ラランパ」の称号をダライ・ラマ法王より授与する。以後、伝統にのっとり密教の学習をしながら、後学のために講義をはじめ多くの弟子を養成している。1969年、南インド・ムンドゴットに一時的に復興されたデプン・ゴマン学堂へ移り、ゲコー(維那)やゲゲン(教授職)を努めていたが、1979年にダライ・ラマ法王に命じられ東洋文庫へと派遣され、5年間日本に滞在し研究を続ける。1986年、ダライ・ラマ法王よりゴマン学堂の第75代学堂長(ケンポ)に任命され就任する。1989年、再びダライ・ラマ法王の命により東洋文庫の招待にて再び来日。以後、東洋文庫外国人研究員として日本全国のチベット学の大学教授および学生を指導し、『ツォンカパ父子全集科文集』などを編集し、数多くの学術的成果を生み出すための中心人物として働く。日本へ移ってからはダライラマ法王に「ジャパンゲシェー」(日本の善知識)と呼ばれ、日本人からは「ゲシェラ」と呼ばれて親しまれる。1996年、再びインドへ戻りデラドゥンにて怖畏金剛の籠行の前行に入る。そして1999年春よりゴマン学堂へ移って本行に入り、2001年7月成就する。2001年10月ダライ・ラマ法王十四世に命じられ、文殊師利大乗仏教会 会長として再び来日し、現在にいたる。
インドに生まれ、11歳までチベット亡命居留区の小学校に通う。11歳の時にガポ・シェードゥプリンにて出家し、1975年デプン・ゴマン学堂へ入る。チベット仏教哲学を学び、2000年にデプン・ゴマン学堂より「ゲシェー」(博士)の学位を伝授される。2002年デプン・ゴマン学堂アメリカツアーに参加。帰国後ゴマン学堂経頭に選出され、2002〜03年にはロシアツアーに2度、フランスツアーに1度派遣される。2003年よりダライ・ラマ法王に任命され、デプン大僧院経頭およびゴマン学堂経頭を務めている。
1960年生まれ、旧宮島町出身。種智院大学仏教学部および仁和密教学院の卒業後、真言宗御室派 大本山 大聖院に勤務。真言宗御室派 総本山・仁和寺(京都市右京区)で修行し、1984年に大本山 大聖院の副住職に就く。1990年、高野山真言宗 真光院の住職に就き、1998年に第77代の大聖院座主(住職)に就く(現在も兼務)。宮島観光協会の副会長でもある。仏教のみならず、スポーツや教育、町づくりなどでも幅広く活動。
牛田龍蔵院 高橋智運
浄土寺 小林暢善 光音寺 高橋昭道 龍蔵院 野中智紹 海龍寺 白川智信 千光寺 多田真祥 神宮寺 亀山大路 宝勝院 国分良空 覚樹院 萬代宗俊 宝満寺 松本泰章 酒見寺 龍田哲史 久屋寺 清木隆宝 西光寺 壇上宗謙 天佑寺 村上徳樹 杉岡叡燦
大本山大聖院 吉田正裕
蓮台寺 佐伯増恒 明星院 八木恵生 胎蔵寺 竹原善生 般若寺 福嶋弘昭 薬師寺 稲毛信宏 正覚院 菅梅弘順 正覚院 菅梅章順 薬師寺 鈴木宏章 西楽寺 内藤快應 大師寺 浜田公道 並瀧寺 三上龍祥 龍蔵寺 宮原大地
本徳寛俊 福嶋範道 油田正光 亀井山法秀 小野湛海 虻川義照
PRIVATE OFFICE OF HIS HOLINESS THE DALAI LAMA:Personal Assistant: THUPTEN NGAWANGRitual Assistant: TENZIN DRAKPA TASHI, JADHO TULKU RINPOCHESecretary: TENZIN TAKLHA, CHIME RIGZEN CHOKYOPAEnglish Translator: GESHE DORJE DAMDULJapanese Assistant:MARIA RINCHEN
ダライ・ラマ法王日本代表部事務所: CHOPE PALJOR TSERINGLUNGTOK, TSEWANG GYALPO ARYA, 鈴木樹代子
1959年、広島に生まれる。尾道商業高校卒業後、秋山スタジオ(東京麻布)に弟子入りし写真を学ぶ。1982年、料理雑誌や食品パッケージ、ポスターなどの撮影を中心に活動をはじめる。1989年より美術館を中心とした撮影を開始し、子どもたちの限りないエネルギーや限りない夢を実現するために、知ることの素晴らしさや自由な発想力をテーマに情報発信活動をはじめる。自らライフ・ワークとして仏教美術、さらには瀬戸内を中心とする仏教文化や歴史、自然、空間をテーマに写真活動をすすめる。2002年、インドでダライ・ラマ法王の取材を行い、チベット密教と出会う。2006年11月、文殊師利大乗仏教会の依頼によりダライ・ラマ法王来日の公式映像総監督を務める。著書には、後期印象派と浮世絵をテーマとした『ゴッホオマージュ』、『国宝の寺・浄土寺』、『西国寺之寺宝』などがあるほか、中国新聞に『素食の旅』(第四十一話完結)を連載するなど、執筆活動も精力的に行っている。京都・建仁寺八百年祭にて、ベルリン・フィルハーモニーの指揮者アンドレ・バウアー氏とジョイントする。現在は浄土寺蔵『源氏物語絵扇面散屏風』について執筆をすすめている。写真活動のほかに、平山郁夫美術館プロデューサー、尾道大学芸術文化学部講師、尾道市文化財保護委員などの公職も務めている。
1975年、広島に生まれる。4歳でピアノをはじめ、15歳で渡英する。Don Rendell氏(sax)を師に、17歳の時 Guildhall music主催のコンテストにてベストピアニストに選ばれる。チック・コリアなどの演奏で知られる The Stable に出演し、「枯葉」などを演奏する。またハービー・ハンコックなどの演奏でも知られるJAZZ CAFEにも出演し脚光を浴びる。10年間におよぶ英国滞在後、帰国。2002年、new jazz(jazzを主体としながらもファンク・ハウス・現代音楽など取り込む)としての形態を持つ akicool.com project を立ち上げる。神酒大亮監督、映画「FALA」「MINE」(2003年TAMA CINEMA FORUMグランプリ作品)の音楽監督を務め、2002〜03年には「bajra」ファッションショーの音楽監督を務める。2004年、音劇レヴュー「龍の衣」や広島の芸術祭典「RESOLUTION」などの舞台芸術でプレイヤー・音楽監督を務める。2005年、自作曲「FALA」が「被爆60周年記念事業/市民アートフェスティバル」の主題歌に選ばれ、同じく自作曲「a girl blind」が「被爆60周年記念事業/ドットコイヒロシマプロジェクト」の主題歌になり、自身のユニットによってこれらのイベントで演奏される。「a girl blind」は、平和の曲として広島市へ譲渡されている。2006年、TSS(テレビ新広島)デジタル放送開局特番「音を奏でる宮島」に出演し、厳島神社内の国宝「高舞台」にて演奏。既成の演奏空間からレストラン、カフェ、美術館などでも演奏や音楽プロデュースなどを行い、常に空間と人と音楽の関係性を表現し展開している。
※野村彰浩氏の音楽は、Episode1やメニュー画面で使用しています。
1972年、広島に生まれる。京都女子大学短期大学部文科国語専攻、立命館大学文学部哲学科哲学専攻を卒業。日本文学と西洋哲学を学ぶ。1997年よりオーストラリアとインドネシアにて、アジアの自然美や風俗習慣、ヒューマニズムをテーマに現地撮影取材を行う。帰国後、1999年より写真家 村上宏治氏を師として仰ぎ、2002年より村上宏治氏に同行してダライ・ラマ法王およびチベット密教文化について取材を開始する。2004年、浄土寺蔵『源氏物語絵扇面散屏風』デジタル・アーカイブス事業に着手する。 2006年、スノーボード選手・竹内智香(オリンピック日本代表)の取材を開始。『日本の美術』(至文堂)、週刊『日本の町並み No. 30尾道』(学研)、雑誌『エプタ』など多くの雑誌に写真を提供する。現在は日本の美術・仏教・文化財を内面から描写することをテーマに活動し、コラム連載なども行なっている。また尾道大学芸術文化学部の講師も務めている。
1971年、広島に生まれる。2003年、早稲田大学文学研究科博士後期課程単位を取得後、退学。2003〜06年、日本学術振興会特別研究員を務め、現在は大谷大学真宗総合研究所嘱託研究員と広島修道大学講師を務める。1994年より財団法人東洋文庫のチベット研究室に参加し、デプン・ゴマン学堂前管長ケンスル・リンポチェ・テンパ・ゲルツェン師(前財団法人東洋文庫外国人特別研究員)を師として、ツォンカパの中観思想とチベット論理学を中心にチベット仏教伝統教学を学ぶ。1998年、文殊師利大乗仏教会を設立し、以後チベット仏教と日本仏教の交流活動をプロデュースする。2006年11月、ダライ・ラマ法王招聘事業の企画・運営・通訳を務める。2011年8月に文殊師利大乗仏教会を解散し、同月、一般社団法人文殊師利大乗仏教会を設立。研究書に共編著『西蔵仏教基本文献』第一巻〜第四巻(東洋文庫)、共著『チベットを知るための50章』(明石書店)、訳著に『学説規定摩尼宝鬘』『広島国際平和会議2006公式議事録』『絶望から立ち直る方法を教えてください』などがあり、主要な論文に「ツォンカパの空思想における否定対象とその分岐点」『印度学仏教学研究』、「ツォンカパの空思想における当事者性」『日本西蔵学会会報』などがある。また大谷大学で開発した Otani Unicode Tibetan Lanaguage Kit は現在MacOS Xにバンドルされている。